本稿は、技術評論社の『モバイルプレス』99夏号に掲載された記事です。


HP200LXで日本文学を「読む」

はじめに

 エディタを使えば、テキストファイルならなんだって読めるじゃないか、なにを今さら、と思われるかもしれない。いやいや、読むといっても色々あろうってもんでして...。
 これは、HP200LXを<大きな文字の縦書きリーダ>として「文庫」のようにする試みのご紹介です。

PCで読む環境はどこまできているか

 インターネットの普及につれて、ネットワークで使用できる文字が、JISの第一水準、第二水準しかないということが問題にされるようになっている。従来、ここに無い文字は、スタンドアローンのPCなら「外字」で対応されていたのだが、ネットワーク接続された関係ではその手は通用しない。で、日本文学を表現するのに「外字」はどのくらい必要なのかを調べるために昨年初めに『新潮文庫の100冊』(以下『100冊』と略記)というCDを購入した。丁度、娘達も大きくなってきて、おとうさんの本を置くスペースも狭くなり相当な量の書籍を始末した後でもあったので、「やっぱり、これからの書斎は、こうじゃなきゃな」と思いながらの購入でもあった。

 我が家には、Windows95とMacintoshがあるので両方にインストールしてみた。あとで知ったのだが、この『100冊』のビューアは、ボイジャーのエキスパンドブックというものであったが、なかなかうまくつくられている。PCにしては読みやすい。
 これまでも、最終的な印刷が縦書きの原稿を書く時には、縦書き表示で校正しているから、「縦書き」表示を見るのが初めてなわけではない。しかし『100冊』の画面は今までのエディタでの縦書きとは違っていた。文字が大きいのと行間がゆったりしているからだろうか。それに一ページの文字量がすくない。エディタで書いていると、どうしても、全体を見渡せるようにと小さ目の文字で沢山表示するように設定してしまう。こちらは、一度に眼に入ってくる分量として無理がない。また「ページという単位」でめくれるのもよかった。結構「本」の感覚である。
 100冊もあるから、それまで手に取ったこともないような作品も読めるし、昔読んだ作品をもう一度読み返してみることもできた。さすが電子媒体、CD-ROM本だ。

 しかし、である。
 最初のうちは、PCでがんがん読んでいたが、だんだん読むのが辛くなってきた。紙と違ってディスプレイ画面では目が疲れるということもあるが、それだけではない。これだと電車の中で読めないのだ。ノートPCを使えば少しは機動性は向上するかもしれないが、どっちにして「文庫」といえる状況からは程遠い。昔の教会で写本聖書が鎖につながれている絵を見たことがあるが、そんな感じではないか。文庫本が図書館の一角に、鎖をつけて鎮座ましましている。文庫とPCは、まだまだアンバランスなのだ。
 結局、さわりを読んで面白そうな作品を見つけると、本屋の文庫本コーナーに立っていた。文庫を手にとって、印刷本だと字が小さいなぁ、とか、紙はぱらぱらめくれて、やっぱりいいなぁ、と思う。で、購入するのかというとしない。家に戻れば、CDの中にあるのだ。こうやって買いたい気持ちを押さえてた。しかし、そのうち我慢も効かなくって、我が家には、またもや文庫本が増えることになってしまった。それも、CD-ROMにあるやつがだ。
 かくして、CD-ROM『新潮文庫の100冊』は、『新潮文庫100冊のCD-ROM見本』となってしまった。あんまりである。

 そこで私は、この電子データ化された文学作品をHP200LXで文庫のように読めればいいのだ、と思い、それを実現するための試行へと向かうのだが、PCで読むということを考えるために、少しより道をしてみたい。

『本はどのように消えてゆくのか』

 津野海太郎さんは、コンピュターと本の関係について精力的に発言をつづけておられるが、『本はどのように消えてゆくのか』(晶文社1996。現在は、電子データで読める。以下『本消え』と略記)の中で、消えていくかどうかを論じるならば、まず、本とはなにかを明らかにすべしと、次の三つの点をもって、本を定義している。だから、この三点が成立しなくなるところが、本の消滅点ということになる。(1)明朝体の文字をタテヨコそろえて組み、(2)それを白い紙の上にインクのしみとして定着し、(3)綴じてページづけしたもの。
 部分的には、コンピュータのディスプレイ上に実現されているものもでてきているとはいえ、本はなかなか消えることはなさそうである。

 『本消え』を読んで教えていただいたのは、組み版という形で具体化している表現形式が、いかに文化的なものであるのかということであった。そこにならんでいるのは「文字」だけではない。「文字の大きさ」も「行間」も、「ルビの振り方」も、長い歴史の蓄積を背景にして並んでいる。(1)-(3)のありようは、文化そのものなのだ。
 だから、我々が、横書きのものを縦書きにしただけで、大きな印象の違いを受けるは、当然といえば当然なのである。

 文学作品をエディタの横書きで読む、というのは、コンピュター大好き人間には抵抗のないことかもしれないが、多くの人が読み難くいと感じるのは当然なのである。エディタが実現している形式にしても、英語圏の人は、そういう文化的なことに頓着しないのではなく、やはり、コンピュターは、英語圏の文化を前提に実装されているということなのだろう。彼らの「読む視点」からして、できる限り無理がない画面が構成されていると考えたほうが自然だろう。その枠組みが日本語文化にどれだけ適合性をもっているのかは、見ての通りである。「読めなくはない」という程度だ。我々は、日本語の表示をそこにむりやり押し込んできたのだ。

 この『本消え』の中で、津野氏が及第点を与えているのが、冒頭でふれたエキスパンドブックであった。「ディスプレイ画面を、新しい紙、いわば紙以上の紙にまできたえあげるためには、これまでの紙とインキを前提にした組版とは別の組版ルールがどうしても必要になる」「それなのに、この国では上っ調子なマルチメディア談義ばかりで、本格的なディスプレイ組版への努力などまったくなされていないも同然じゃないか」とことあるたびに憤慨を表明していた津野氏は、エキスパンドブックで「ほんの少しであるが悲観の度合いが減った」と書いている。
 エキスパンドブックに至る「日本語で読むこと」へのこだわりを知るに至り、PCもここまできたか、と思ったのだが、世間知らずもいいところであった。この「こだわり」文化は、とっくにマックの世界ではあたりまえになっていた。すごいものが現われたと思ったのだが、Windowsが遅れていただけだったのだ。
 まあ、それはともかく、MacでもWindowsでも、今ではエキスパンドブックが使えるようになっているのは嬉しいことである。加えて、ボイジャーは、先ごろ、Webコンテンツを、縦書きでブラウジングできる「T-Times」を発表した。これを使えば、英語圏文化に最適化されたWebブラウザの横書き表示に日本語をむりにはめ込むのではなく、日本語として読み易い行間、文字数にして表示させて読むことが可能になる。ボイジャーならではこだわりである。これらが今、手にすることのできる最も読みやすい環境なのだろう。

 しかし、私は、やはり不満なのである。
 いずれにしてもPC(MacやWindows)のところにいかなくてはならない。デスクトップPCであれ、ノートPCであれ、やはり、本の手軽さからは程遠い。もちろん「エディタで縦書き表示にして読む」ような野蛮は状態ではなく、かなり読み易くなるのだが、仕事でPCに向かっているのに、読書する時までPCに向かうのかと思うと、なんともいえない気持ちになる。だいたいハードディスクやファンの回転音だって読書には似合わない。

インターネットと携帯端末が実現する新しい身体

 津野氏が定義した3点以外に、メディアとしての書籍をみるならば、次のような点についても考慮すべきだろう。(4)すぐに開ける、(5)どこにでも持っていける。
 最近のPCの小型化、モバイル端末の進化を見れば、こうしたメディア的な機能性を体現したPCや端末が出現するのは時間の問題かもしれない。しかし、私は、今読みたいのだ。ちょっと工夫すれば、出来そうだし。
 90年代のコンピュター界の最大の事件は、インターネットの普及であることには間違いない。これによって、我々の時間感覚、空間感覚が大きく変化した。インターネットとつながっているところであれば、いつでもコミュニケーションが可能になったのである。

 今、「いつでも」と書いたが、これは、インターネットにつながっているコンピュータがある所にいけば、という条件がつく。その意味では、インターネットによって始まった時空間の変容は、モバイル・コンピューティングの拡大によって本格化したと言える。モバイル以前は、時空間を変容させる入り口(PC)までいくことが必要であったが、モバイルは、自らの身体をその場でインターネットに接続する。
 この流れのなかに読む環境としてのPCも考えたい。だから、モバイルPCで「読む」のである。書籍ではとうの昔に実現され、オーディオではすでに20年の歴史を持つ世界の実現である。

HP200LXで「読む」

 だから、HP200LXで「読む」。他のモバイルマシンは知らない。私が持っているのがHP200LXで、HP200LXなら以下のストーリーが成り立った、という以上の話ではない。しかし、私は大層満足している。結構いける。それがこの報告の出発点である。
 さて、我がHP200LXにVZはのっているから、横書きエディタで読めないわけではない。しかし、ここに漱石の『坊っちゃん』なんぞを展開してみると確かに文字は表示されるのだが、とても、読む気分にはなれないのはご覧の通りである。(データは、PDD図書館)

Vzで横書き表示の「坊っちゃん」画面例

 しかし、HP200LXには、縦書きリーダも開発されているので、それを使ってみればもっとエレガントな環境が手に入る。みゅうさん作のJupiterは随分前からインストールしてあって、何度か使っているが、縦書きにすればいいってもんじゃない、と私の身体(目?)が言っている。

Jupiter14ドットでの縦書き表示「坊っちゃん」

 なにが問題か。字が小さすぎるのだ。エキスパンドブックは、ディスプレイに表示させて読み易い文字の大きさとして18ポイントを選択した。書籍に使われている文字よりも大き目である。ビジネス文書に比べても大きい。

 紙での印刷を考えると、文字が大きいとページ数が増えるのだから、コストを下げるには、ページあたりの文字密度を上げるしかない。小学校の教科書の文字は、大きく、行間もゆったりしているが、学年が上がるにつれ、だんだんと文字も小さく行間もせまくなる。大人向けの書物というのは文字がぎっしりつまっている。そういうものだと思ってきたが、視力(眼力?)が衰え、小さい字が読み辛くなってくると、文庫や辞典の大活字本の存在がありがたくなってくる。しかし、それらは高めだし、だいいち場所をくう。

 しかし、コンピュータなら、同一のデータを使っても、表示の書式を変更するだけで様々な表示形式が可能になるので、本の時の様なコスト問題を気にすることなく、文字の大きさを考えていいのである。読みやすさを優先させて文字の大きさやレイアウトを考えられる。津野氏は、このことをコロンブスの卵だと書いていた。
 ならば、Jupiterで大きな文字を縦書きで表示させてみればいいではないか、ということになる。

24ドット・フォントを用意する

 Jupiterのドキュメントをみれば、フォントサイズを自由に選択できそうである。早速、24ドットフォントを作って実験した。
 24ドットフォントをつくる種は、Windows95のTrueTypeフォントである。wfontxを使って24x24のビットマップフォントをつくる。約622KByteのファイルになる。明朝だと線が細いので、futome処理をおこなう。

wfontxの画面

 これを、フォントを格納してあるディレクトリに格納し、fontman.iniの[fontx2]に登録し、jupiter.iniで使用フォントサイズを指定する。そしてリブート。これだけで使えるようになる。

fontman.iniの24ドットファイルを登録したところ
--------------------------------------
[fontx2]
a:\fontx\jpkhn8x.fnt
a:\fontx\jpkhn14x.fnt
a:\fontx\jpkhn16x.fnt
a:\fontx\winzf24x.fnt ←これが、24ドットフォントファイル

--------------------------------------
 24ドットフォントで表示させるためのjupiter.iniの設定は、以下のようになる。作者のみゅうさんからのアドバイスによれば、「CharPitch はフォントの高さの1/2以上の値にしないと、正しく表示されません」とのこと。

 (縦書き24ドット文字表示に関係するjupiter.iniの部分)
-------------------------------------
[vertical]
DBCSFontH=24
DBCSFontV=24
CharPitch=12
LinePitch=36
-------------------------------------
 このように、Jupiterで24ドットフォントを扱うのは、いたって簡単である。

 しかし、フリーウェアでの日本語化環境と、JKITでの日本語化環境では違いがでてしまうようである。
 JupiterのFileSelectやHistoryでのファイルリスト表示(この機能は、本文の文字フォントの大きさに関係ない)がおかしい。文字が回転されて表示されなければいけないのに、つぶれてしまい見えない。みゅうさんによれば、この回転部分は、シスマネがやっている領域だとか。アドバイスにしたがって、disp14をはずして問題は解決。しかし、フリーウェアで日本語化してある私のマシンでは、AppointmentsやPhoneBookでfont.14が使えなくなってしまった。JKIT環境なら問題はないようである。

やったぜ、でかい文字で縦書きだ

 下図に、24ドットで表示させた『坊っちゃん』の冒頭部分をのせておく。これなら電車の中でも読むことができる。

(24ドット縦書き表示で、Jupiterで見た「坊っちゃん」MS-min-futo.gif)

 ちなみに、私のJupiterは、以下のような設定になっていて、スペースキーで、ページめくり、HOMEでファイル先頭、ENDでファイル末、になるように設定を変えてある。

jupiter.iniのページ操作関係の設定部分。
*のところをdefault設定から変更してある。
-------------------------------------------
[key]
(略)
NextLine=Down *
PrevLine=Up *
TopOfFile=Left *
EndOfFile=Right *
(略)
NextPage=' ' *
(略)
-------------------------------------------

 基本的な表示、操作が可能になったので、次は、見易さのチューニングである。
 文字を大きくするとフォントファイルのサイズが巨大になっていくので、24ドットでいいことにする。実際、これより大きくすると、表示可能文字が少なくなりすぎると思う。先の設定で、26字x5行の表示になる。書体は、いくつか試してみる。
 試したのは、MS明朝、MSゴシック、秀英明朝の三種類。MS明朝、MSゴシックは、Windows95のものである。三つ目の秀英明朝は、『100冊』についてきたものである。実験する前は、この秀英明朝が一番文庫らしくなることを期待したのだが、文字の周囲がすっきりしなかったので候補からはずした。MSゴシックは、線は一番すっきりしているが、やはり「見出し」用である。ゴシックの「本文」というのは気味が悪い。結局、MS明朝が一番文庫らしくなった。もちろん、ふとめ処理をしないと線が細い。なお、MS明朝、MSゴシックともに『100冊』で使用されている220字あまりの外字は、表現されない。
 こうして、私のHP200LXは、24ドットフォント表示のJupiterで「文庫」となることができた。めでたし、めでたし。

日本文学テキストアーカイブズ

 実は『100冊』で使われているデータは、plainテキストではない。エディタでみてみればわかるが、そこに並んでいるのは、Shift-JISでもJISでもEUCでもない。これにはまいった。これでは、HP200LXでは読めない。悩んでいてもしょうがないので、Webで検索をかけてみたら、金子義典さんが、「新潮文庫の100冊のためのツール」をシェアウェアで公開されていることがわかった。さっそく、ダウンロードして試す。自動的にテキストファイルに変換してくれる。
 こうして『100冊』は、いつでもテキストファイルに変換できるようになった。

 しかし、「これ読もう」と思ったら、金子さんのツールでテキストファイルに変換してHP200LXにファイルで送る、という作業が必要になる。このあたりは、電子データとしてファイル転送が必要となる、という話にすぎないが、スマートではない。明日の出勤の途中であれを読もう、なんて思ってからPCを立ち上げる。なんか違うなぁ...。

 ものによっては、一冊をテキストファイルにするのに数時間かかる。トルストイの『アンナ・カレーニナ』のような大作(3539ページ。文庫本x分冊)などは、5時間30分という処理結果がreadme.txtにある。やはり、文庫本のように「ちょっと読んでみよ」ってわけにはいかない。

 『100冊』の姉妹編の『明治の文豪』『大正の文豪』というCDもある。こちらは、plainテキストのようだ。しかし、日本文学の電子テキストは、これだけではない。以下のところには、めまいがするほど沢山の電子化されたテキストが登録されている。ぜひ、訪れてみていただきたい。

 ちなみに、青空文庫は、エキスパンドブックのボイジャーが運営しているサイトであるので、登録されているものにも、テキスト、HTML、に加えて、エキスパンドブック形式がある。ビューアもフリーでダウンロード可能だし、津野氏の『本消え』もここで読める。『100冊』も、このビューアで読める。

 岡島氏のサイトからは、他のアーカイブサイトへのリンクも含めて膨大なリンクが張られている。何度も例に使わせていただいた夏目漱石の『坊っちゃん』は、PDD図書館というところからダウンロードしたものである。

 また、『100冊』をテキスト化するツールは、先の金子さんのもの以外に、ジャック川崎さんのものがある。こちらは、ファイルをテキスト化して、フォント指定タグなどを削除するだけであるが、金子さんのツールのように一冊まるごと変換というのはできない。あくまで、ファイルの実体に則した変換になる。しかし、スピードは早い。

 冒頭に触れた「外字」については、電子データ化する段階で、いろいろな工夫がされている。外字を使わなければ日本文学の基本的な作品を表現できないというのは、日本語インターネットの状況としては情けないものである。しかし、今、HP200LXを文庫型リーダにすることで、じっくり読む環境を手にして、更に、もう一つ別の領域にも気がついた。それは、ルビが果たしている重要な機能だ。

 外字の話題になると、たいてい話題にのぼるのが中島敦の『山月記』である。これをJISコードの漢字だけで表現すれば、確かに外字の部分は字が出せない。字が出なければ読みようがない。この作品の場合、登場人物の名前が一つ外字になってしまうから確かに深刻ではある。だが、それ以外に、表示されていても読めない文字が沢山あるのだ。つまりルビがないと読めないのだ。『坊っちゃん』くらいのルビの頻度なら対象となる漢字、熟語の下に[ ]で挟んで表記してもなんとか見られるが、『山月記』くらいになると、そんなことをすると画面は記号だらけになってしまう。ルビが表記できる仕組みはやはり必要である。

 JISでは文字が足りないという議論と並行して、コンピュータ上での日本語の組版のルールをめぐった議論も進行しているのは、こういった点もあるからだろう。

おわりに

 モバイルに限らずPCで読み書きをするあたって、エディタは最も基本的なツールである。しかしエディタは、その名の通り、執筆・編集ではパワフルだとしても、「読む」道具としてはイマイチである。読むのには、日本語の特性にあった読み易いリーダが必要なのである。
 まだまだ、本は消えないと思う。しかし、本の上にだけのっていた多くのコンテンツの電子化が進行している。そんな状況で、手持ちのHP200LXを「読む」ための道具にする方法を紹介させていただいた。読者の皆様のモバイル・ライフの参考にしていただければ幸いである。

屋外でも読む

 この文庫化の土台を実現してくれたJupiterの作者みゅうさんには、設定のこまかいところをアドバイスしていただきました。記して感謝いたします。また、NIFTY-SERVEのFHPPCのみなさんにも常日頃お世話になっています。今後ともよろしくお願いいたします。

藤本一男
kazuo.fujimoto@nifty.ne.jp
http://world.std.com/~fujimoto
メモレックス・テレックス株式会社
津田塾大学「情報と社会」非常勤講師
(講義資料のWebに、文字コードをめぐる議論に関係するものをまとめてあります。ご参考まで。http://edu.tsuda.ac.jp/~fujimoto

■使用ソフトウェアの入手先

 使用法などは、付属ドキュメントを参照してください。

■参考文献