クラウンベーカリーブルース


写真入り改訂版 1998/08/25



 昨日、無事帰国いたしました。今回は、ソウルから送ったメールは二通だけになりました。
 以下のものは、最終日の午前中のできごとです。仕事が目的だったのか、こっちが目的だったのか、なんてお聞きにになりませんように!
1995/05/20 (Sat) 21:58:15 <ふ>

■プロローグ

 今回の訪韓で、仕事が済んだらどうしても訪問したいところがあった。それは、「デーウォン・ヨガン(大元旅館)」と「クラウン・ベーカリー」。どちらも20年前に訪韓した際に大変お世話になったところで、韓国にいる友人たちの消息と同じくらい気になっていた。
 幸い(本当に!)、予定していた仕事が一日で終わってしまったので、帰国する日の午前中は、ソウルの中心部にいくことが可能になった。泊まっていたホテルは、ソウル西部郊外の丘の上にあったので、仕事用に缶詰にされていたようなもの。昨晩なども、仕事から戻って来ても、どこにもいけなかった(だからといって、電子メールを書いているのもどうかと思うが…)。
 さて、朝は前日よりも早目に支度を済ませてチェックアウトし、タクシーで市街に向かう。窓の外は、通勤途中の人達でごった返している。ちょうど通勤時間だ。
 イスンシン(李舜臣)の銅像が睨みをきかせている世宗路と鐘路の交差点で下ろしてもらうと、見覚えのある建物が目に入る。東亜日報社。なんとなく道幅が広くなっているように感じたが、交差点の四隅の建物の様子は昔と同だから、20年前もこの広さだったのかもしれない。
 いくつか懐かしい建物が目に入るものの、やはり高層ビルが増えている。20年前に一緒に訪韓した友人が、ソウル五輪が行われたら相当変わってしまうだろうから、その前に一度見ておきたいと言っていたのを思い出す。彼が訪韓することなったとき、「デーウォン・ヨガン」と「クラウン・ベーカリー」のことを見てきて欲しいと頼んだ。しかし、その時(88年)ですらすでに10年以上の歳月が流れていたわけで、「クラウンはあったけど、デーウォンはなくなっていた」という彼の話にはうなづくしかなかった。
 また、91年だったが、20年前に仲良くなった韓国の女性(当時、延世大学の大学院生)が、娘さんと一緒に日本に遊びに来てくれた。実に、16年ぶりの再会。彼女は、76年にベルギーに留学して以降、ずっと向こうで暮らしていて、そのまま結婚。その時は、里帰りついでに足を延ばした日本の観光旅行だった。もちろん、彼女にもデーウォン・ヨガンとクラウン・ベーカリーのことを聞いたのだが、彼女の返事も、先の友人と同じで、「クラウンは、素敵なパン屋になって繁盛しているけど、あの旅館は、どうかなぁ。多分、もうないと思うよ」というものだった。
 確かに、その辺りは、ソウルのド真ん中ではないにしても、新聞社や博物館などがある中心街。一方の「デーウォン・ヨガン」は、古い韓式の旅館。「近代化」の波に飲み込まれて、なくなってしまっていても不思議はない。。
 行く前の情報といったら、こんなものだったで。多分、もうないだろうな、ないならないで、どんなになっているか見ておきたい。これが、正直なところだった。


1975年2月の鐘路交差点。向かいは、東亜日報

■「デーウォン」健在!

 交差点の地下道(これも懐かしい)を上がって、クラウンがある区画に向かう。地上に出たら目の前にはハンバーガーの「ウェンディ」。かつては、こんなもん無かったな。こいつは、私の会社のビルの一階にもある。ところが、その脇を通っている斜の道を見ると、昔見たのと同じ光景が目に飛び込んできた。表通りが非常に近代的になっていても、一本路地裏に入ると昔ながらの店先が拡がっている。もしかしたら「デーウォン」は、まだあるかもしれない、という気持ちにさせてくれる光景だ。その斜の道を渡ってすぐに右側に「クラウン・ベーカリー」が見えた。「あった!」。確かに、立派になっている。だんだん、昔住んでいたところに帰ってきたような気分になっている。いくらなんでも、20年前のウェイトレスがいるわけはないが、やはり一人一人の顔を追ってしまう。そして、右折。デーウォン・ヨガンがあるならば、この路地ぞいになる。確か右側...と思っていたら、看板があった。なんとも言えない気分で、門の前に立った。看板は昔より立派になっている。私が泊まっていたときは、縦書きのハングルで「デーウォン・ヨガン」とあっただけなのだが、今では、「大元旅館は、こちらです」(日本語)と「INN DEAWON」(英語)なんて書いてある釣り看板まである。門の作りは昔のまま。韓国の民家のつくりなのだ。私は、そーっと、ドアを開けて中に入っていった。
 小さな中庭があって、その周りに部屋がある、という構成は昔のまんま。タイム・スリップしたような気分になる。心臓がドキドキしていたかどうかは、覚えていない。

 しかし、中庭のテーブルを囲んでいたのは、日本人でも韓国人でもなく、四人の外国人(あとで、彼らは、カナダやオーストラリアからの旅行者であることがわかる。もちろん、私も外国人なのですが…)だった。彼らが一斉に私の方を振り向いた。
 「ヨガネ、アジュモニ、ケーシムニカ」(旅館のおばさんは、いらっしゃいますか)と言うと、そのテーブルの回りを掃除していて女性が、「私が、あじゅもに、だよ」と振り返った。ずいぶん、若い人だなぁ、当時お世話になったおばさんなら、もう相当な年齢だろうに、と思いながら、20年前に泊めてもらったことなどを説明する。まず、おばさん、びっくり。テーブルを囲んでいたみんなも、びっくり。
 後で説明を聞いたが、今のオーナー(このアジュモニ夫婦)は85年にこの旅館を買ったという。だから、そのアジュモニは、私が世話になったおばさんではなかったことになる。しかし、20年前のデーウォン・ヨガンと同じ「空気」がそこにあるのは、確かだった。

当時の筆者とヨガンのアジュモニ

 カナダから来ていた長期休暇で友達とアジア旅行中の銀行員氏の話では、この旅館のことは、口コミで拡がっているということだった。安旅ガイドにも、ものすごく小さい扱いだけど、紹介されているとか。一泊6000ウォン(約700円)という安さは、そう見つけられるものではないだろう。昨日まで泊まっていたホテルは、一泊15万ウォンだ。
 壁には、生活上のいろいろな注意書きや、必要な情報を手に入れるための案内が貼られている。殆どが英語。そのアジュモニも、彼らと英語で話している。カナダやオーストラリアから来ていた諸君から、昔の様子を聞かせて欲しいとせがまれる。私の話を聞きながら、「20年だって! すごいよ、それは!」といって、「ファンタスティック!」を何度も繰り返していた。「僕はまだ、こんなにチビの小学生だったよ!」。彼らにも面白い話だったのだろうが、この私にだって、目の前に拡がっている光景は、本当に夢のようなのだから。

■「走馬燈のように蘇る」とはこのことか…

 20年前も、この旅館は、決してユースホステルのようなものではなかった。どちらかというと、少々いかがわしさすら漂う「旅館」だった。知り合いになった韓国の学生に、どこに泊まっているかと聞かれて、「デーウォン・ヨガン」と答えれば、男子学生は、ニヤニヤしていたし、女子学生なんかは「私をそこに呼ぼうっていうわけ!」といって怒りだしてしまう一幕すらあったのだ。実際、私達が泊まっていた時にも、隣室では、コトが行われていたようだ。「ようだ」というのは、私は耳が悪いのか、その声がよく聞こえなかったのだが、一緒にいた友人は、「お前、あの声が聞こえないなんて幸せだぞ、まったく」といって、布団をかぶってしまった。それに、そういう男女が出入りするところに何度か遭遇したから、まあ、そういう所だったのでしょう。
 「そういうところ」だといっても、いわゆるラブホテルなわけではなく「旅館」だ。旅館は、そいう使われ方もする、ということなのだろう。私達が泊まっていたときに、ほぼ住み込み状態の人がいて、彼は、コメディアンの修行中だと話してくれた。時々、我々を部屋に招いてくれて、御馳走までしてくれた。その人の彼女とも一緒にスキヤキを食べたなぁ。あるときは、日本の古典落語の文献が手に入らないか、と頼まれて、その次の訪問の時に、角川文庫の古典落語なんとか、というのをおみやげに持っていった記憶もある。見せてもらった写真に、ここの次男と今韓国のTVにも出ているコメディアンが写っているのがあったが、その人は、ここに住んでいた人なのかも知れない。
 ま、そんな住み込みの人がいたり、私達のような長期滞在(といっても2週間くらいだが)の学生がいて、残りの部屋は「旅館」だったりしていた。91年に16年ぶりに再会できた先の彼女なんかは「面白い所に泊まっているじゃん」といって、訪ねてきてくれた方だ。
 ある日、我が友人が、アイスクリームを食べて、猛烈な腹痛に襲われた。その時は、旅館のアジュモニ(おばさん)も相当心配してくれた。「友人が、腹痛で苦しんでいる」と伝えると、じゃあ、これを飲めと、なんか缶に入った薬をもってきて、身振り手振りで、これを飲ませれば、直ると言っている。当時の私の韓国語運用力は、全然たいしたことないし、アジュモニも、日本の植民地時代に日本語を強制されていたとはいえ、微妙なところは、もう怪しかった。こういう時に何が問題かというと、それが一体なんの薬なのかわからない、ということなのだ。缶に書いてあるのは、皆ハングル。英語で書いてあっても、薬の名前なんてわからないだろうけど、とにかく、わからない。

 しかし、友人は、苦しんでいるので、なんとかしなくてはならない。「おい、おばさんが、これを飲めば直ると言っているぞ。さあ、飲め」と言ったら、とてつもなく不安な表情で「なんの薬かわからないものを飲めというのか、お前は! 医者に連れていってくれョ〜!」と懇願される。まあ、そうだろうな。アジュモニに医者を聞くとわからない、という。医者は高いから、めったなことでは、かからないのだ、と後で韓国の友人から教えてもらった。その分、街には薬局が多い。この時に、薬局にも行ってみたのだが、薬剤士の説明の英語がやっぱり(!)わからなくて、すごすご退散してきている。
 結局、その時は、先の彼女にも応援に来てもらって、とにかく医者に辿り着くことが出来た。最初は、彼女と医者がしばらく韓国語で話していたらしく、横にいた彼は、いったいなにを話しているのか、不安でしょうがなかったらしい。ところが、その医者は、慶応の卒業で日本語も話せた。「もう大丈夫ですよ」と日本語で話しかけられて、彼は、はじめて「助かった」と思ったという。病名は、「急性大腸カタル」だった。我が友人は、おしりにでっかい注射をされた。当時のガイドブックには、生水、アイスクリームは、口にしないこと、と書いてあったし、喫茶店でも、水が出てくることはなかった。ポリチャ(麦茶)がでくる。「〜をください:〜ジュセヨ」」の練習文として「ポリチャ ジュセヨ」は、すぐに身について喫茶店で使えるようになる。
 私は、その前の訪韓時に一度、相当強烈な下痢をした。それを直してしまってからは、免疫ができたのか、韓国の人と同じものを食べていても、全然平気になってしまっていた。確か、その時は、先の彼女の友人である梨花女子大の大学院生と4人で博物館かなんかに行って、一緒にアイスクリームを食べたのだ。その梨花の彼女は、今、韓国の某大学で、助教授になっているらしい。
 その翌日、彼女が、お粥を作ってきてくれた。それでも我が友人は、動ける状態ではなかったので、アジュモニに彼のことを頼んで、彼女と二人だけで市内見学に出かけることにした。友人の病状が心配じゃなかったわけではないが(本当に!)、彼女と二人っきりのデートが楽しかったのはいうまでもない。

■「クラウン・ベーカリー・ブルース」

 アジュモニ(おばさん)とあれこれ話しているうちに、アジョシ(おじさん)が部屋から出てきた。アジュモニが、私のことを説明してくれる。アジョシもびっくりしてしまって、「まあ、とにかくお上がり下さい」と部屋の中に通されてしまう。昔と同じ、オンドルの部屋。どの客室も前のまま、オンドルパン(オンドルの部屋)。


 最後に来たのが1975年です、と言うと、紙に数字を書きながら、20年も前じゃないかと驚いていた。アジョシは、85年にこの旅館を買ったので、その前のことはわからない、といっていた。その前のオーナーの消息も尋ねたのだが、よくわからなかった。それならと、クラウン・ベーカリーにいた、眼鏡のおじさんのことを聞いてみる。
 朝食は、殆ど、クラウン・ベーカリーで食べていたので、常連になってしまい、そこにいた、眼鏡のおじさんとも仲良くなっていた。最後に訪韓した時に、名前と住所は書いてもらっていたのだが、その時は、帰国直前にプサンのフェリー乗り場で強盗にあってしまって、ノートからカメラにいたるまで、殆どの記録を失くしてしまっている。それ以来、ずっと気になっていたのだ。しかし、あれから、20年。生きていても、相当な年齢だろうな、と思う。
 クラウンにいたおじさんは3年くらい前に亡くなったという。でも、そのおじさんは、眼鏡はしていなかったように思うと言っていたから、私達が仲のよかった人かどうかはわからなかった。
 クラウンのおじさんは、植民地時代に日本にいたこともあるようで、日本のお祭りのことを話してくれたことがあった。浴衣を着て下駄を履いて団扇を持ってと、とても懐かしそうに話すので、「押しつけられた文化でも懐かしいものですか」と聞いてしまったことがある。その時、おじさんは、怒ることもなく、「もし、私くらいの歳のものが、あのころのことを懐かしそうに話していたとしたら、それは、決して植民地支配を懐かしんでいるんではないんだよ。自分の青春時代があの植民地時代だったというだけなんだ。懐かしんでいるのは、私の青春時代だよ。」と淡々と話してくれたのを覚えている。君達は、あんなことは絶対に繰り返さないでくれ、とも言った。戦後の日本の韓国に対する関係が、直接的な植民地と宗主国の関係ではなくなっているとはいうものの、いい方向に向かっているのかどうか、不安なところがないわけではない。しかし、この、眼鏡のおじさんが、私の「命の恩人」というか「魂の恩人」になったのは確かなことだった。おじさんは、韓国語を勉強している私達「日本人学生」と話していて、とても嬉しそうだった。言葉を学んでいて、こういう出会いがあると、やる気がわいて来る。私の韓国語学習は、進歩度合はともかく持続だけはしてきたと思うが、その原点は、こういう体験にあるのだろう。
 友人とは、ギターを持って来ていたので、クラウン・ベーカリーの二階でコンサートを開いたこともあった。日本語の歌(「クラウン・ベーカリー・ブルース」なんてのも作ってしまったし)や韓国のフォークソングを歌ってみた。クラウンの社長さん(女性)まで来てしまって、結構もり上がったなぁ。出演料は、なかったけど、パンやらジュースやらをご馳走になってしまった。


♪ 冷たい道に 白い息が走る
  ソウルの街に 朝がきた

 * ねぇ、君 一緒にいこうよ
  クラウン・ベーカリーへ!
  パンを三つと牛乳一本の朝飯 食べにさ

♪ 眼鏡のおじさんが 懐かしそうに日本のことを
  聞くたびに、僕たち ちょっと辛くなったのさ

 * ねぇ、君 一緒にいこうよ 
  クラウン・ベーカリーへ!
  パンを三つと牛乳一本の朝飯 食べにさ

♪ 眼鏡のおじさんが 僕達の土産にと
  マーク入りのコップを 三つ内緒でくれました

 * ねぇ、君 一緒にいこうよ 
  クラウン・ベーカリーへ!
  パンを三つと牛乳一本の朝飯 食べにさ

♪ 冷たい風が 路地に吹き込む
  ソウルの街に 夜が来た

 * ねえ、君 一緒にいこうよ
  クラウン・ベーカリーへ!
  明日の朝、早く 僕は帰るのだから
  明日の朝、早く 僕は帰るのだから!

 (「クラウン・ベーカリー・ブルース」1975/2<ふ>)

■デーウォン・スピリッツは「若き冒険心」から始まった

 ここを見つけたのは、私ではない。でも、私に教えてくれた先輩が、広め始めた先達だろうことは確かだ。事前情報など持たない若き冒険心が、ここの門を叩いた。そこには、気さくな人達がいた。もちろん、彼らは、宿泊者の「お世話」を仕事としてしているわけではない。その旅館を経営しながら、普通に暮らし、宿泊者と普通につき合ってくれただけでなのだろう。でもそのことで、多くの宿泊者に、韓国の民間の生活を教えてくれたのだ。そこで、本当にいい体験をした人が大勢いたから、口コミで、多くの人達に伝わっていった。デーウォン・ヨガンは、宣伝をしているわけではない。よかったなと思った人が、友達に紹介したり、ガイドブックに投稿したのだろう。「泊まって良かった」と本当に思えなければ、こういう伝搬は不可能だ。
 私達も、韓国に行く人達にデーウォン・ヨガンのことを紹介してきた。いろいろな大学の人がいた。きっと彼らもまた、デーウォン・ヨガンを訪ね、そこにいた(前の)アジョシとアジュモニに世話になり、また、友達に紹介したに違いない。
 85年にはオーナーが変わってしまったわけだが、デーウォン・ヨガンを訪ねて来る人達が期待したものは、おそらくそれ以前と変わっていなかったのだ。そして、新オーナーとなった、キムさんとカンさん夫婦は、前オーナーに劣らず気さくな人達で、訪ねてくる若い人達の期待に応えたのだ。こうして、デーウォン・ヨガンの流儀が維持された。これって、すごいことではないだろうか。「デーウォン・ヨガン」スピリッツとでも呼べるようなものが、明確な普遍性をもって、そこにはある。でなければ、維持されるものではない。
 75年の夏が私の最後の訪問なので、85年からここを経営しているキムさんたちに直接お世話になったことはないことになる。しかし、昔、デーウォン・ヨガンにお世話になったことがある、ということだけで大歓迎をされてしまった。ノクト(エンドウ豆)を茹でたものと、搾りたての人参ジュース、それに、ホットドックと、朝御飯まで一緒に御馳走になってしまった。これも、デーウォン・ヨガン・スピリッツのなせるわざだろうか。大ホテルじゃこうはいくまい。

 ここのアジョシとアジュモニには、三人の子供がいる。息子が二人で娘が一人。三人とも、今は日本の大学に留学している。一昨年、新宿で撮った家族の写真を見せてくれた。部屋には、三人目のお子さんがうまれた当時の写真や、お二人の結婚当時の写真も飾ってあったが、娘さんは、若いころのお母さんによく似ている。20年前だと、ちょうど、ここの長男が9歳、次男が6歳、そして娘さんが4歳の時ということになる。今の私の娘達と同じくらいの年齢だ(8歳と5歳)。私の娘達が、あのお子さん達のような年齢になるのに必要なのが20年という歳月。その間、いったい「デーウォン・ヨガン」をどれくらいの人達通り過ぎていったのだろう。
 私の先輩が門を叩いてから20年。いったい、どれくらいの人が訪れたのだろう。どんな出会いがあったのだろう。想像もつかないけれど、考えてみようとするだけで、とても、わくわくする。

■終わりではない「エピローグ」

 さて、私達が20年前に泊まった「デーウォン・ヨガン」は、今や日韓だけでなく、ワールドワイドな交流の場所になっていた。インターナショナル・ヨガンになったといっても、建物が洋風に改築されたわけではない。本当に昔ながらの韓式の旅館のままだ。国際性を感じさせるものとしては、掲示板にある英語の諸メッセージに加えて、二台のカード電話がある。その場には不つり合いなくらい大きなクレジットカード用電話機が国際通話用に二台も設置されている。アジュモニ達は、昔ながらの、黒電話を使っていた。宿泊客宛てにもしょっちゅう電話が入っていて、「ミスターXXX、テレホン、テレホン!」などと、大きな声で叫んでいる。モデム用のモジュラージャックがあればいうことないのだが、それはついていなかった。残念ながら。
 中庭のテーブルは、電子メールの話で盛り上がっていた。韓国のVANのことやらPC通信のことから話がはじまり、インターネットの話にもなっていく。私が嬉々としてその輪に入っていったことは言うまでもない。今度、彼らと話すのは、E-mailになりそうだ。「インターネット」と「デーウォン・ヨガン」。どちらも、コミュニケーションの場である。ネットワーク・ノード(NetWork Node)としての「デーウォン・ヨガン」は、健在だった。

 空港に行くバスの時間が来てしまったので、皆さんに別れをつげなければならなくなる。アジュモニもアジョシも、ぜひまたきなさい、と言ってくれる。嬉しい。もちろん、私もまた来たいし、私の娘たちが高校生くらいになったら、絶対に教えてやろうと思う。別れ際、カナダの銀行員氏が「ぼくも、20年たったら、もう一度来て見るよ」と言って握手を求めてきた。2015年かぁ。どうなっているだろうね。でも、今泊まっている人達が、よかったと思って、そのことを友人に知らせて、その友人達が、また、よかった、と思えれば、デーウォン・ヨガン・スピリッツは続くのだと思う。

 私は、20年前に、韓国を訪問した。それから、韓国を巡っては、色々なことがあって、再訪するまでに20年も経ってしまった。ずっと、気になっていたことが、一つ片付いた気がする。それも、とても嬉しい状態で。思い切って、探しに歩いて本当によかったと思う。本当に!



図 デーウォン・ヨガンの名刺

  地図の下に、「この方を、ちょっとだけ案内してあげてください。ありがとうございます。」というメッセージが書かれている。訪問者は、韓国語がわからなくても、これを街の人に見せれば、たどり着くことができるように作られている。


1995/05/20 (Sat) 19:19:36 Online Version 1.0
1995/05/21 (Sun) 10:31:22 Online Version 1.1 歌詞の追加と作年訂正(95->75)
1995/05/21 (Sun) 17:46:20 Online Version 1.2 小見出し作成
1995/05/22 (Mon) 22:28:41 Online Veriosb 2.0 一部入れ替え


2003/4/19(Sat)HTMLVersiom3.0 CSSで行間をあけて少し読みやすくした。

1998/08/25(Tue) HTMLversion 2.0 写真を追加。
1997/01/10 (Fri) HTML version