『私たちが好きだったこと』社内報Dash原稿 1997-9-24


監督:松岡錠司、
脚本:野沢 尚、
原作:宮本 輝
「私たちが好きだったこと」

 与志(岸谷五郎)、
愛子(夏川結衣)、
ロバ(寺脇康文)、
曜子(鷲尾いさ子)
 これは、偶然出会ってしまって、なりゆきで一緒に暮らし始めてしまい、そこで芽生える恋と愛のお話。出会い、別離、再会というありきたりのパターンなのだが、やはり、別れが辛い。映画なら、相手がどうして欲しいと思っているとか、こうすりゃいいのに、とか距離をおいてみることも出来るのだが、表にはださない彼らの「願望」は、おたがいのやさしのなかで、みごとにずれていく。自分が当事者のときは、そのような客観的な視点など望むべくものでもないが、映画だと、観客の「特権」として、なりゆきを観取することができる。そして、映画の制作者はこの観取を自然に生成させながら、観客を作品にひきずりこむのだろう。
ハリウッド映画的なハッピー・エンド・パターンだったら、主人公の下を去った愛子がもう一度かれの部屋を尋ねて来て、「どうして、ひきとめてくれなかったの」と泣いた夜の翌朝は、違ったものになっている。

 その明け方、愛子は、別れもつげずに部屋を出ていく。彼は、そうなること承知していたわけで、あわてることもなく、また、ひとりぼっちの部屋で目覚める。ベランダで明け方の空を眺める。すると、電話ボックスのなかに愛子がしゃがみこんでいるではないか。彼は走る。走っていって、彼女を抱きしめて、いっしょになろ、とでもいうのだろうか。それともまた、別れのくりかえしなのだろうか。彼を走らせたものを分析的に説明することなどできないと思う。彼は全力で走り続け、電話ボックスの彼女に到達しなくてはならない。この場面で、私は一緒に走ってしまった。作者の思う壷である。しかし、ああいうときに全力で走らないやつがいるか。しかし、彼は、愛子を抱きしめることも、別れをすることもできなかった。この場面は、クライマックスなので、これ以上の説明はなし。映画を見て下さい。
私はここでおもいっきり「電話ボックスのなかにしゃがむ愛子」に走りよってしまったので、主人公のせつなさ、喪失感を身体一杯に染込ませてしまった。
充満する喪失感。自分が失ったものは自分にしかわかならい、救いようのなさ。友人だって、慰められるものではない。自分の喪失したものは、世界広しといえども、自分のところにしかなかった、という確信は、その喪失を絶対的なものにする。恋に置き換えはきかず。自分だけで立ち直るしかない。誰かに癒してもらうとすれば、それはすでに欺瞞。
彼女の突然の再来と切なきセックス。あんなふうに身体を重ねたら、未明の別れの後の空白にたえられるだろうか。原作も読んでないし、映画みていないし、TVでなんどかみているだけだが、「失楽園」のセックスが滑稽さを漂わせているのとは対象的だった。あちらは、スポンサー獲得のためのマーケッティング先行のドラマだからしょうがないのだろうが。視聴者もなめられたものだ、まったく。
 そして、5年がたち、この四人は再会する。再会するのに、5年の歳月が必要であったということなのだ。
「恋人たちへのディスタンス」は、ヨーロッパの鉄道で知り合ったアメリカ青年とフランス娘の、出会ってから夜が開けるまでのお話だったが、彼らは、一年後の同じ日の同じ時間に、同じ場所で会おう、という約束をして別れ、映画は終わる。私はこういうパターンにも結構弱い。男の方は、翌年、絶対にその場所にいくのだろうけど、彼女のほうは、来ないだろうな。来ないということは、彼にも予想がつくのだけれど、いくしかないではないか。先の彼が走るしかなかったように。それが、恋というものだろう。
ハッピーエンド形でおわると、その場の欲求はみたされるが、それっきり。アメリカの娯楽映画は、こうして消費される。「めぐり逢えたら」なんかはその典型。おもしろくもなんともない。最後のエンパイヤステートビルでのすれ違いの「ハラハラ」などいいかげんにしろと言いたくなる。とはいえ、この一月に、見物してきたが。
 それはさておき、この手の映画では、余韻など、劇場の外にもちだすものではないとでもいうのだろう。「デヒスタンス」は、チョッピリ余韻がのこる。しかし、ジュラシック・パークであった、「次作をご期待ください」の予告編であった、恐竜の胚カプセルの流出画面のようなものはなかったので、次作はないだろう。あっても困るし。再会したって、実はろくなことがあるわけないのだから。
 で、この「私たち…」は再会までで終わる。再会とは、同時に和解。自らにピュアであり、お互いに「やさしい」が故にお互いを傷つけあったものたちが、再会する、というのは、ある意味で、当時の自分達をまるごと受け入れるということでもある。そして、それは、そのころの自分、彼女を追いかけて、抱きしめて、自分のもとにひきとめておきたかった自分との別離なのだ。こうして、喪失はゆるぎなき日常として固定される。同窓会というのは、そんな側面を持っている。「みんながまた顔をあわせるには5年の歳月が必要であった」というフレーズは、泣かされる。しかし、5年なら、早い方じゃないの、という気もする。別の言い方をすれば、そんなに早くあきらめなきゃならないの、である。
コミュニケーション成立ということが幻想であることを描くのに恋愛ものは、格好の舞台かもしれない。限りないディス・コミュニケーションの連続。それでも、コミュニケーションが成立しているように振る舞うことで、自らを欺瞞し愚弄することが重ねられる。しかし、そのことを指摘するなどというのは野暮なこと。そんなディス・コミュニケーションなどに目をむけるのは、大人ではない。そして、結婚という制度がこのディス・コミュニケーションを隠蔽するために動員される。いや、恋愛だって、不倫だって、今や、この制度化された結婚と大差ないかもしれない。
 恋はしようと思って始まるものではないし、訪れる時は、不意に訪れるし(まったく….)、やめようと思ってやめられるものでもない。恋愛と嫉妬に、理性まったく無力だ。
こうして、観客であった私は、主人公の失恋の切なさだけでなく、それを挽回する期待をいっさい奪われた日常、つまり、別離が焼き付けられてしまった日常性にまでつきあわされることによって、わが身の忘れていた痛みまで思い出してしまったのであった。

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