2008年に書いた柳尚熙先生追悼文集への寄稿「天国の柳先生へ」

■天国の柳先生へ

柳先生、

昨年(2007年)の8月の始めでした。先生にご報告したいことがあり、ご自宅にお電話をさしあげた時に先生が入院されたことを知りました。一度、年賀状をいただけなかった年の翌年、大病をしたが回復した旨のご連絡をいただいたことは記憶しておりましたが、「この10年は入退院のくりかえしでしたよ」という呉先生の病状の御説明に驚きました。学会や研究会でお会いする先生はいつもお元気そのものだったのですから思いもよらないお話でした。同時に自分の呑気さに呆れておりました。

初めて先生にお会いしたのは1974年のUNESCOの学生交換に関係するセミナーの場でしたから、もう30年以上も前のことになるのですね。当時上智大学に在籍していた私は、先生とはキャンパスでいつでもお会いできました。朝鮮語の自主講座を開きたいと講師をお願いした際には、講師料なしでお引き受け頂きました。ずいぶんと勝手なお願いをしたものだと今思い出すと赤面いたします。

小数とはいえ自主講座が行われていたことも一つの要因になったのでしょう、上智大学で韓国語の講座が正規に開講されることになりました。その時、講座名をどうするかで先生と議論になったことを覚えています。私は強硬に「朝鮮語」であるべきだと主張しました。それは、日本人として南北の分断に加担する韓国語という呼び方に組みすべきではない、というものであったと思います。こうした「左翼」学生の主張も最初はにこにこしにながら聞いていただいていましたが、ある時、いっこうに進まない議論に、先生は「君は、僕がどう気持ちで君達に韓国語を教えているのか、わらないのか!」と激怒されました。その時、先生が悔しそうに遠くを見ておられたのを覚えています。その議論はそこでおしまいとなりましたが、先生に怒られたのはあとにも先にもあの時だけのように思います。

そうしてできた科目名が、コリア語という英語のKoreaをカタカナで表記した呼称でした。83年に開講されたNHKの講座名の「アンニョンハシムニカ ハングル講座」がきっかけとなったと思いますが世の中にあふれた「ハングル語」よりはましなものの、コリア語という呼称にはしっくりしないものを感じています。「韓国人の私が教えるのだから韓国語だ!」と言っていただいた方がよかった気もしています。言語の呼称の難しさ思い知らされた出来事でしたが、その後、きちんとお話しすることもなく今日にいたってしまいました。

正規に講座が開講されたコリア語、もちろん履修しました。レポートには、韓国で手に入れてきた『日帝下韓国言論闘争史』の序文を訳し、外国語では初めてのAをいただきました。自分でも、ずいぶんと背伸びしたものだと思いますが、先生はニコニコしながら「難しいのに挑戦したね」と受け取ってくださいました。

同じクラスになったことはないのですが私のつれあいも柳先生のコリア語の受講生でした。そんなご縁もあり結婚式ではご祝辞を頂戴しました。実は先日、結婚25周年を迎えることができました。ご報告させていただきます。

それにしても、韓国語は大して上達することもなく時間ばかりが過ぎてしまった30年でした。

90年に大学院に入って社会学を勉強していると年賀状に書きましたら、励ましのお電話を頂戴しました。また95年に弟が他界した時、先生は葬儀にかけつけてくださり、黙ったまま手を握ってくださったのを今も覚えています。ありがとうございました。その時、娘が先生に「アンニョンハセヨ!」とご挨拶したことを、眼を細めて喜んでくださいました。早いものであの娘達も、大学の4年生と1年生です。2002年、大学の教員に転職した時も先生はとても喜んでくださいました。

にもかかわらず、継続だけはしているものの私の韓国語はずっと初級。書いていて自分でも情けなくなります。それでも先生にご報告したくて、昨夏、先生にお電話さしあげました。

9月にゼミの学生をつれて姉妹校である東新大学(羅州)に行くことになったこと。ソウルに戻る途中で、全州大に寄る予定だが、そこでは、30年前のあのUNESCOの学生交換で友達になった文先生にお世話いただくこと。

つまり、私が学生時代に先生からいただいたようなチャンスを学生達に与えられるような活動を始めました、ということをご報告したかったのです。

冒頭に書きましたように、その電話は先生が入院された直後だったようです。痛み止めの薬のために意識が朦朧としているから会話は出来ないかもしれないけど、会えるかどうか聞いてみると呉先生に言っていただきました。先生からは応答できないかもしれないけど会うとおっしゃっていただき、お見舞いにかけつけました。

病室の先生はうとうとされていましたが、お話しされているうちに意識もはっきしりされてきたようで、看護婦さんにも「教え子さんがおいでになったら、大学教授の気迫になりますね。さすが!」と冷やかされていましたよ。

その時に先生が話されたこと。

「藤本、アウンって知っているだろ。」

「ええ、阿吽の呼吸のアウンですね。」

「そう」(ここで柳先生は、阿と吽を仁王様のポーズで見せてくれる。結構さまになっていました。)

「あれはな、あ、ん、だ。ハングルで書くと、아、응。わかる?」

「ええ…」

「つまりな、AとZ。αとΩなんだよ。」

「はい。」

「最初と終わり。始まりのあるものは必ず終わる、ということだ」

「…ええ。先生、そんなに弱気にならないでくださいよ。」と私。

実は、この話を柳先生の末席の弟子(私)の対極、つまり優秀な弟子のお一人である長友英子さんにお話したら、そんな悲しいことをおっしゃるのですねと言っておられました。

ちなみに、長友さんがNHKのTVでハングル講座の講師をやられているのを「発見」した時に、ご活躍されているなぁと思い。いずれ連絡をと思っていたのですが、結局、柳先生のご入院の件で連絡をとることになってしまいました。同じ時期に同じ先生に韓国語の手ほどきを受けて勉強を始めても、私のようなレベルにずっと止まっている者もいれば、長友先生みたいな方もいらっしゃいます。君ももっと上達しろということですね。はい。

しかし、話しはまだ続きがありました。

「(私の反応にお笑いになって)君くらい若いとまだわからないかもしれないね。でも、ア、ウンなんだ」

「はい。」

そして次が衝撃でした。

「そしてね、この間にあるのが文化なんだよ。アとウン。ウンとア。」

「…」

文化とは生者と死者のコミュニケーション。理念としてはわかっていたつもりでした。それを病床の先生から話していただくとは。私はやるだけやったからあとは君達がやれ、ということでしょうか。私はそのように受け止めました。

そう考えてみますと、先生にご報告したいことがあってお電話さしあげたのは先生から早く会いにこいということだったのかもしれません。

その後、二回ほどお見舞いにうかがいましたが、意識が朦朧とされていたようで、お話は出来ませんでした。

そして、ご逝去の報。

出張と重なってしまったため、ご葬儀には参列できず最後のお別れができませんでした。この失礼ずっと心残りでした。ですが、先生からいただいた最後のメッセージ、しっかりと受け止めました。長い間本当にありがとうございました。”末席の弟子”、がんばっていきます。

合掌

P.S ところで、先生。一度お聞きしたかったことがあります。先生がソウルで高校の先生をやっておられた時の生徒さんのことです。でも直接お聞きすることは出来なくなってしまいました。天国でお会いになっていますか。

作新学院大学
人間文化学部 教授
藤本一男

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