父の出棺の時のご挨拶

8月20日、父の命日でした。
いつか整理せねば、と思っていた父の葬儀での出棺のご挨拶を再現+追記しました。


本日は、父の葬儀にご参列いただき、まことにありがとうございました。おかげさまで、父は85年の人生を全うすることができました。あつく御礼申し上げます。

父の容態は、急変しました。しばらく安定していたのですが、ここにきての変化が急でした。ですが、その最後の1週間、父に寄り添いながら過ごすことができました。

また、お忙しいなか、病院にかけつけて下さった方も何人もいらしゃいました。ありがとうございます。

父と最後の一週間を過ごしながら、父の手のこと、父の工具箱のことを思い出しておりました。

父の手は頑丈な手でした。それは若い頃の農作業の経験だけでなく、大工仕事も影響しているということを若いころの父をご存知の方におしえていただきました。

過酷な労働で鍛えられた手でした。

その手は、東京に出てきてからは、ガラス加工の町工場の「職人」「おやじさん」の手となりました。

アルバイトとして、町工場の仕事を手伝ったことがありましたが、そこで、ガラス加工(高熱をかけて強度を確保するようなものとか)の一枚の単価が「銭」という単位であることをその時に教えてもらいました。10枚やってやっと1円。1円よりこまかい単位があることに驚きました。

そんな労働を通して大学にまでいかせてもらいました。父は、高等小学校(今の中学)、母は、女学校(今の高校)までの学歴です。仕事をすると周りには、大卒の人達が大勢いる中でずいぶんと肩身の狭い思いをしたようです。当時の息子はそんなことはまったく気にもかけず、親不孝の限りをつくしていたというわけです。お恥ずかしい限りです。

父の85年間は、決して平坦なものではなかったと思います。大家族の末っ子として産まれ、16歳の時に終戦。戦争中は、名古屋で働いて、工場で焼夷弾、機銃掃射を受けています。同僚の首に焼夷弾がつきささったり、不発弾の起爆装置をさわっていた同僚の腕が吹き飛んだり…と、何度か話してくれました。

上京する決意は、可愛がってくれていたおばあちゃんをびっくりさせたようでした。決意すると行動は早い。周囲も驚いたようですが、いろいろと聞くと故郷には自分の居場所はない、という判断があったようです。大家族の末っ子ゆえの決断であったようです。

社会が高度経済成長に向かうなかで上京。同じ会社の同僚と結婚。私と弟が生まれます。

故郷からは父の後に、何人かが上京しますが、先に来ているものとして、ずいぶんと面倒をみていたようです。

そんな父に強烈な悲劇が訪れます。弟が過労で他界します。1995年のことでした。

昨年には、母をおくりました。晩年は、母の介護に自分の生きがいを見出していたようで、その役割が終わって、気が抜けてしまったのかもしれません。

そして、今日のこのようにみなさまに送られて父も旅立っていきました。

亡くなる少し前の見舞いの時、相変わらず、でかいしっかりした手だね、と話したとき、手を握り返してきてくれました。お前の手もしっかりしてるさ、と穏やかに笑ってくれた父でした。

おかげさまで、そんな最後の時を過ごすことができました。

父の故郷、福井のみなさま、母の故郷、伊豆のみなさま、そして、もう一つの家族であった東京特殊硝子のみなさま、母、父と二人ともお世話なった、ケアレジデンスのスタッフのみなさま、父の肝臓と20年以上付き合ってくださった山王病院の先生、スタッフのみなさま。

本当にありがとうございました。

おかげさまで、父は85年の人生を全うできました。

■2021年の追記
父の手ですが、硝子に熱をかける電気炉を耐熱レンガとニクロム線でつくったり、と結構器用にモノをつくってました。ないものはつくればいい、というそのフットワークは、大工仕事で培われたものではないかと想像しています。少しは受け継いでいるのかも(^^)。

で、もう一つ。60年代の高度成長を支えたものに、京浜工業地帯の町工場がありますが、そこの「おやじさん」たちって父と同じように、子どもの頃に農作業をしているのではないでしょうか。そして、そこで、土を触る感覚が鍛えられたのでは、と想像しています。金属加工の町工場の話で、数ミクロン?を手で触って判断する、というような話を目にしました。その能力って、その世代の人たちの子どものころの農業体験に根ざしているのではないだろか、と思いついたは、父がなくなったあとでした。

その話、父もお世話になった、実家のとなりの自転車屋の親父さんにしたところ、そうかもね。私もそうだし、あたなのお父さんだけでなく、田舎からでてきた我々は、みんなそんな経験しているね、とという反応をもらいました。

その自転車屋のおやじさんもすでに鬼籍に入ってしまいました。京浜工業地帯の金属加工の町工場のおやじさんたちの手の感触は、NC機械に代わられてます。

もっと早く気がついて、インタビュー調査に回っておくんだったと、いつものことながら、あとの祭りです。

父に仕事の話を聞いた時に、蒲田や川崎の町工場ネットワークの凄さを教えてもらいました。なにか困ったことがあれば、そのネットワークでなんとかなるのだと。町工場それぞれは、そこのおやじさんたちの技にささえられているわけですが、その技は、ネットワークによって維持されていたのですね。大企業にいる大卒の人たちって、それがわからないんだよね、と嬉しそうに話してました。

父の命日に。

(写真追加しました。モノクロのものは研究室がまだ物置になってない💦着任してすぐの頃です。父と母が来てくれました。
工具は父の形見。ノギスは、ミツトヨのものでした。清原工業団地に工場があって、調査実習で社食巡りをした一社。確か父が使っていたノギスが…と写真をご担当にお送りしたら、とても驚いておられました。すごく古いものだそうです。
あとは、工業用ダイヤモンドが埋め込まれたガラス切りとかヤットコとか。
全部を残しておくわけにもいかないので、大学の施設課のNさんに、使っていただけそうなものを引き受けていただきました(^^)。)

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χ2分布をRの関数を使って味わう!

χ2分布に関する関数を使いながら、確率密度、累積確率密度、分位点の勉強をしてみました。

https://rpubs.com/kfj419/777924

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対応分析研究会 第5回のための関連資料

「対応分析研究会」第5回(2021/04/17土曜日 14:00〜16:00予定)のための資料リンクです。当日の報告の資料はできるだけ早く配布するようにしますが、参考資料として、以下のものをリンクしておきます。

第7章「最適化尺度法」に関連するものです。

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オーム社刊の『対応分析の理論と実践』の「訳者はじめに」「訳者おわりに」と「日本語版への序」を公開します

Michael Greenacre, Correspondence Analysis in Practice third Editionの日本語訳を、2020年11月に刊行することができました。それの「訳者はじめに」「訳者おわりに」そしてGreenacre先生による「日本語版への序」を公開いたします。出版社の確認済です。

訳者はじめに CAiP3_JP訳者はじめに

日本語版への序 CAiP3日本語版への序

訳者おわりに CAiP3_JP訳者おわりに

Amazonでのリンク https://amzn.to/2QAmfR0

 

 

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服部美佳子先生追悼文集への寄稿:雷鳴と共においでになった先生は 天女になってお帰りになったのだろう

雷鳴と共においでになった先生は
天女になってお帰りになったのだろう

藤本一男 (教員)

あれはいつのことだっただろうか。急に空模様が怪しくなってきたと思った ら雷が鳴り始めたのだから、9月だったのかもしれない。大学に学生はあまり いなかったので夏休みが終わる前だったような気もする 。

 研究室に在室している時にはドアを 開けておくので、誰かが研究室前の廊下 を通ると、すぐわかる。その時もそうだった。誰かが通った。それが服部先生 だった。 続きを読む

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2008年に書いた柳尚熙先生追悼文集への寄稿「天国の柳先生へ」

■天国の柳先生へ

柳先生、

昨年(2007年)の8月の始めでした。先生にご報告したいことがあり、ご自宅にお電話をさしあげた時に先生が入院されたことを知りました。一度、年賀状をいただけなかった年の翌年、大病をしたが回復した旨のご連絡をいただいたことは記憶しておりましたが、「この10年は入退院のくりかえしでしたよ」という呉先生の病状の御説明に驚きました。学会や研究会でお会いする先生はいつもお元気そのものだったのですから思いもよらないお話でした。同時に自分の呑気さに呆れておりました。 続きを読む

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ミードの科学に対する態度-ルネサンスの科学への批判と調査科学をめぐって-

同僚から頼まれた探し物をしていて偶然発見。1992年の5月。大学をでて最初に書いた論文。東京都立大学社会学研究会の『社会学論考』第13号, 1992.5.31, pp87-105、です。

実際に掲載されたものではなく、そのデータをつかってLaTeXで組版したものでした。

ざっと読み返してみて、おい、そんなこと言ってしまっていいのか!というところもありますが、泣いても笑ってもワタクシであります。ちゃんと読み直してみようと思って、ここに貼り付けておきます。ミードの科学への態度

 

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「フル・モンティ」社内報Dash原稿 1998/08/13

 「男のストリップ」映画だ、と聞いてどんな映画を想像するだろうか。
これは、25年前は製鉄業で栄えたイギリスはシェフィールドでの失業した男達のお話。
失業すると、それまで当たり前であったものがことごとく崩れていく。働いて自分の生活を維持しているということがもたらしていたのは、賃金だけはなく、プライドやら体面やらでもあったのだ。失業という事態は、それらを崩してしまう。賃金は、向こうからこなくなってしまうが、当人にとっては、そう簡単に手放せないのが「プライド」などである。会社での地位あっての自分でもあったにもかかわらず、それは認めたくない。ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリングストーン」を思い出した。

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太陽の少年「陽光燦爛的日子」社内報Dash原稿 1998-03-08

1998-03-08
太陽の少年「陽光燦爛的日子」
1994年 中国・香港合作
監督・脚本 チアン・ウェン(姜文)
原作 ワン・シュオ(王朔)
『動物凶猛』
 とても不思議な映画である。登場するのは主人公(シャオチュン)を中心とした少年たちと「謎の美少女」ミーリン。「大人」はところどころで断片的に登場するだけである。明け方に突然目が覚めてしまい昔のことを思い出してしまったり、家人や近所の人達がまだ起きていない時間に味わう感覚を映像にするとこんな風になるかもしれない。

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『Shall we ダンス?』と『空手道ビジネスマンクラス』社内報Dash原稿 1997/12/25

 昨年の十月頃であったが、「Shall we ダンス?」(1996、監督・周防正行)が、アメリカでも話題になっているという記事があった。黒澤映画とは違った日本人像、それも平均的なサラリーマンへのイメージが変わったとか。しかし、日本人がみんな侍のイメージだったとしたら少々無気味である。我々だって、アメリカ=西部劇なんて見てないよね。
それはさておき、最近、失意に遭遇した時に受ける打撃が小さくなってきているように思う。もっとも、失意を恐れて冒険しなくなっているが。
若い時には、絶望や失意の重みを知らない希望。歳を重ねるにつれ、希望や夢なんてものは経験してきた絶望やら失意やらの下敷きになってとうにペシャンコになっていく。もっと若かったころは、本当の自分は他にいて、今は世を忍ぶ仮の姿なのだと思っていたと思う。今でも、オレだって..と思わないわけではないが、可能性よりも不可能性の方がどうもリアルである。毎日毎日、自分の「身の程」をボディブローのように思い知らされているので、無邪気な希望などを持ちたくても持てない状態が定着してしまっている。 続きを読む
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