2008年に書いた柳尚熙先生追悼文集への寄稿「天国の柳先生へ」

■天国の柳先生へ

柳先生、

昨年(2007年)の8月の始めでした。先生にご報告したいことがあり、ご自宅にお電話をさしあげた時に先生が入院されたことを知りました。一度、年賀状をいただけなかった年の翌年、大病をしたが回復した旨のご連絡をいただいたことは記憶しておりましたが、「この10年は入退院のくりかえしでしたよ」という呉先生の病状の御説明に驚きました。学会や研究会でお会いする先生はいつもお元気そのものだったのですから思いもよらないお話でした。同時に自分の呑気さに呆れておりました。 続きを読む

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ミードの科学に対する態度-ルネサンスの科学への批判と調査科学をめぐって-

同僚から頼まれた探し物をしていて偶然発見。1992年の5月。大学をでて最初に書いた論文。東京都立大学社会学研究会の『社会学論考』第13号, 1992.5.31, pp87-105、です。

実際に掲載されたものではなく、そのデータをつかってLaTeXで組版したものでした。

ざっと読み返してみて、おい、そんなこと言ってしまっていいのか!というところもありますが、泣いても笑ってもワタクシであります。ちゃんと読み直してみようと思って、ここに貼り付けておきます。ミードの科学への態度

 

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「フル・モンティ」社内報Dash原稿 1998/08/13

 「男のストリップ」映画だ、と聞いてどんな映画を想像するだろうか。
これは、25年前は製鉄業で栄えたイギリスはシェフィールドでの失業した男達のお話。
失業すると、それまで当たり前であったものがことごとく崩れていく。働いて自分の生活を維持しているということがもたらしていたのは、賃金だけはなく、プライドやら体面やらでもあったのだ。失業という事態は、それらを崩してしまう。賃金は、向こうからこなくなってしまうが、当人にとっては、そう簡単に手放せないのが「プライド」などである。会社での地位あっての自分でもあったにもかかわらず、それは認めたくない。ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリングストーン」を思い出した。

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太陽の少年「陽光燦爛的日子」社内報Dash原稿 1998-03-08

1998-03-08
太陽の少年「陽光燦爛的日子」
1994年 中国・香港合作
監督・脚本 チアン・ウェン(姜文)
原作 ワン・シュオ(王朔)
『動物凶猛』
 とても不思議な映画である。登場するのは主人公(シャオチュン)を中心とした少年たちと「謎の美少女」ミーリン。「大人」はところどころで断片的に登場するだけである。明け方に突然目が覚めてしまい昔のことを思い出してしまったり、家人や近所の人達がまだ起きていない時間に味わう感覚を映像にするとこんな風になるかもしれない。

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『Shall we ダンス?』と『空手道ビジネスマンクラス』社内報Dash原稿 1997/12/25

 昨年の十月頃であったが、「Shall we ダンス?」(1996、監督・周防正行)が、アメリカでも話題になっているという記事があった。黒澤映画とは違った日本人像、それも平均的なサラリーマンへのイメージが変わったとか。しかし、日本人がみんな侍のイメージだったとしたら少々無気味である。我々だって、アメリカ=西部劇なんて見てないよね。
それはさておき、最近、失意に遭遇した時に受ける打撃が小さくなってきているように思う。もっとも、失意を恐れて冒険しなくなっているが。
若い時には、絶望や失意の重みを知らない希望。歳を重ねるにつれ、希望や夢なんてものは経験してきた絶望やら失意やらの下敷きになってとうにペシャンコになっていく。もっと若かったころは、本当の自分は他にいて、今は世を忍ぶ仮の姿なのだと思っていたと思う。今でも、オレだって..と思わないわけではないが、可能性よりも不可能性の方がどうもリアルである。毎日毎日、自分の「身の程」をボディブローのように思い知らされているので、無邪気な希望などを持ちたくても持てない状態が定着してしまっている。 続きを読む
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『私たちが好きだったこと』社内報Dash原稿 1997-9-24


監督:松岡錠司、
脚本:野沢 尚、
原作:宮本 輝
「私たちが好きだったこと」

 与志(岸谷五郎)、
愛子(夏川結衣)、
ロバ(寺脇康文)、
曜子(鷲尾いさ子)
 これは、偶然出会ってしまって、なりゆきで一緒に暮らし始めてしまい、そこで芽生える恋と愛のお話。出会い、別離、再会というありきたりのパターンなのだが、やはり、別れが辛い。映画なら、相手がどうして欲しいと思っているとか、こうすりゃいいのに、とか距離をおいてみることも出来るのだが、表にはださない彼らの「願望」は、おたがいのやさしのなかで、みごとにずれていく。自分が当事者のときは、そのような客観的な視点など望むべくものでもないが、映画だと、観客の「特権」として、なりゆきを観取することができる。そして、映画の制作者はこの観取を自然に生成させながら、観客を作品にひきずりこむのだろう。
ハリウッド映画的なハッピー・エンド・パターンだったら、主人公の下を去った愛子がもう一度かれの部屋を尋ねて来て、「どうして、ひきとめてくれなかったの」と泣いた夜の翌朝は、違ったものになっている。

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『素晴らしき日』 社内報Dash原稿 1997/08/01

映画「One fine day」
邦題「素晴らしき日」
 ミシェル・ファイアー/ジョージ・クルーニー

 あなたにとって「素晴らしき日」とはどのような日だろうか。この映画は、最初はまったくその気になりようがなかった二人が恋に落ちていく「すばらしい」一日を朝から夜まで描いていく。
それぞれバツイチの二人は、自分の仕事の最も「大切な一日」に、子供の面倒もみなくてはならない、という困難を抱え込む。親の仕事にひきずりまわされる子供たちにとっては「とんでもない一日」の始まりでもあった。

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『グース』社内報Dash原稿 1996/12/11

 空を飛ぶ話は、いろいろとあると思うが、これは、初めて南下する渡り鳥(グース)に、父娘が軽量飛行機で道案内をすることになるお話。鳥には「刷り込み」という、生まれてすぐに見たものを母親だと思い込む性質があるらしくて、この映画は、実際にそれを使って撮られているらしい。鳥が、よくあそこまで「演技」をするものだ。
ただでさえ難しい14歳の娘が、母親の事故死によって、十年来会っていなかった父親と暮らすことになる。娘は、父親に対してなかなか心を開かないが、グースを媒介に、心を通わせていくあたりは、ありそうな話ではある。しかし、実際のグース達との飛行訓練など、出てくる場面は、全然ありそうではない。軽量飛行機など、驚きだ。
小学生の娘をもつ私は、「父娘物語」として感情移入しながら楽しんでしまったが、他にも気になるところがあった。それは、この父親の友人たち。おそらく60年代のフラワージェネレーションに属するであろう彼らは、子供のままの感受性を残したままの大人でもある。この世代には、一方では、成功し名声を博している人達もいるが、この映画にでてくるのは、その反対の世渡りは不器用な人達。そこには、地位も名声もない。しかし、この「父娘物語」の大事な背景として、彼らのこだわりとスペシャリティと友情があった。あんな感じの先輩がいるなぁ、と思わず、ニヤっとさせられてしまった映画でもあった。

1996/12/11 (Wed) 22:38:04 <ふ>

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「速く走る練習は必要ない」ということ

その1

「速く走る練習は必要ない」という*。
これ、理解するの難しいです。

でも、スロージョギングやってきた今なら、こんな風に理解できるかなと思ってます。

「ゆっくり(にこにこペース)で走っていると乳酸閾値(LT値)があがっていく」そうすると「自然と、つまり無理しなくても速く走れるようになっている」
つまり、「速く走れる」状態は、結果として、つまり乳酸閾値があがった結果なんだ、ということのようです。

中学時代から陸上部で中距離、長距離を走ってきたので、自分の中にあるのは、こんなイメージなんですよ。
「(無理してでも)できるだけ速く走る」そうやって身体を引っ張ることによって、その状態に「慣れる」身体になる。
だから、その時、走れるギリギリで練習するのだ!と。

でも、これやると怪我、故障を引き込みますよね。50代になって張り切って「無理な練習」をしてしまった私です。変形性膝関節症(^^;)。

身体のなにを鍛えるのか。スロージョギングでは、乳酸閾値(LT値)をあげていく、ことを無理なくやっていく。以前の練習方法は、身体を鞭打って、無理させて、その無理が効く限りで効果(らしいもの)がついてきた。こんな違いがあるのですね。

この2年間のスロージョギングの効果、すごいです。確かに大会でのタイム、かなり改善してます。でも、そうすると、ついつい「速く走る練習」をしてしまうのですよね。

田中先生も書かれてました*。「速く走る練習をしたい方は、最小限にとどめるべきです。」p82

なにを鍛えるのか。これって、子育て、(部下、学生とわずの)教育などでも共通の構造の問題ですね。

にこにこペースで走ります(^^)。

* 田中宏暁『ランニングする前に読む本』ブルーバックス

その2

随分前に、浅井えりこ『新版 ゆっくり走れば速くなる』ランナーズ、2006は読んでいるのですが、ここで説明されているLSD(long slow distance)は、ふ〜ん、というレベルでしか理解してませんでした。この本では、ハードな練習も必要だけど「そのハードなトレーニングを受け入れる『器』が身体にできてないと、疲れるばかりで効果はありません」って書かれているのですよね。p24-25。今発見(^^)。
田中先生の本は、その器の取得をLT値の変化として説明してくれたところが大きいように思います。
浅井さんの『ゆっくり走れば…』も読み直してみます(^^)。

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「対応分析」ってなんですか、について

「今、なにやってるのですか?」と聞かれると、
「対応分析の本、二冊目の翻訳やってます」と答えます。すると、
「『対応分析』ってなんですか?」と聞かれるのですよね。当然でしょうけど。

その質問に簡単にお答えするのは、結構難しのですが、昨年(2019年)の夏に、作新学院図書館ニュース(「SAKUらいぶ」)88号に寄稿させていただいものがでてきました。探しものをしていて発見。

簡単にしか書いてませんが、まずはこれを見ていただくようにしようかと(^^)。

ここにあります。

 

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