『素晴らしき日』 社内報Dash原稿 1997/08/01

映画「One fine day」
邦題「素晴らしき日」
 ミシェル・ファイアー/ジョージ・クルーニー

 あなたにとって「素晴らしき日」とはどのような日だろうか。この映画は、最初はまったくその気になりようがなかった二人が恋に落ちていく「すばらしい」一日を朝から夜まで描いていく。
それぞれバツイチの二人は、自分の仕事の最も「大切な一日」に、子供の面倒もみなくてはならない、という困難を抱え込む。親の仕事にひきずりまわされる子供たちにとっては「とんでもない一日」の始まりでもあった。

 このお話の舞台はニューヨーク。今年の初めに行ってきたので、光景が懐かしい。しかし、大切なのは雨。素晴らしい日の条件には、やはり晴れというのが不可欠だろう。しかし、天候は雨なのだ。うんざり、の始まり。
お話のなかでは、雨は、降ったりやんだり。時には土砂降り。が、この悪天候をもものともせず、二人の恋は育っていくことになる。雨は、お話の背景をずっと流れている。しかし、この雨も、楽しいものにもなる。
 Jazzのスタンダードに、「Here’s that rainy day」というのがあって、雨もまたよし、という気にさせてくれる好きな曲の一つだ。アートファーマのマネをして、トラペットで吹けるといいのだがサマにはならなかった。しょうがない(というわけでもないが)ので、ギターのソロで時々ひいてみるが、雰囲気は出る(と思っている)。
 ところで、気になるのは「男」と「女」の描き方だ。最近は、キャリア否定の傾向がはやりなのだろうか。彼女のほうは、「自分ですべてをやれる」という自尊心のかたまり。だから、「きつい」女。彼の方は、「自分だけではなにもできない」といいながら、実際にはきちんと責任をはたし、仕事をこなしていく男として描かれる。この構図は、女性の自立の「行き過ぎ」に対するロマン主義的な反動なのか。彼女は、「きつい」けれど、本当は「あなたを必要としている」かわいい女なの、というメッセージがあふれている。だから、観客は、彼女の無理やきつさは、多少オーバー気味で、「かわいい」と思うようにしむけられている。
もうひとつのメッセージは、子供には父親が必要、というもの。父性の不在は今日、世界中で問題になっているようで、先日出張でいってきたソウルの某大書店にも「アボジ」(おとうさん)が平積みになっていて、父性の不在が問題になっているからベストセラーなんだよ、と友人が教えてくれた。
70年80年を通じて、家長的父性は、封建的な反動的なものとして、否定されてきた。しかし、それに対する代替案は、「やさしい」「ものわかりのいい」父性であった。ところが、これが社会的な自我の脆弱さを招いているのだ。家長的な父性に反対しうる「個」の自覚は、皮肉なことだが、家長的父性の強さに依存する。この家長的父性が衰退すると(これは、対抗して形成された自我がめざしたことだが)、対抗する自我の形成の土台がくずれていく。その結果が、社会的インテグリティの衰退というわけだ。
この事態に対する対応のうち、復古的なものは、ある意味でわかりやすい。6月の「父の日」に、池袋駅前で右翼の演説に遭遇してしまったが、そこではこんなことをいっていた。「父親と子供は、友達なんかではない。親は親であって、子供は子供なんです」と。その宣伝カーは、それ以上のロジックを展開してくれなかったが、「子供は親に服従すべき」「親は絶対だ」とか言っているわけでもなかったのが、滑稽ではあったが、いわんとしていることは、わからなくもない。確かに、「親は親。子供は子供」で、意味が通じる人には通じたのだろう。ただ、この右翼は、今日的な父性の衰退には楽観的すぎるかもしれない。親は親、子供は子供、といったときに、伝統的な親子関係が自動的に想起されると思っているかのような口ぶりであったから。親は親。子供は子供。関係ないよ、という反応にこそ、なにか、いわなくてよかったのだろうか。復古的なアジテーションを出来ない右翼。これも、相手の左翼やリベラルの衰退と対なのだろうか。
これに対する、左翼やリベラルの側は、一貫して、「自立した個人」というところに立脚するしかないのであろうか。
このテーマは、現代社会の根本問題の一つなので、これ以上踏み込まないが、さきの映画では、父性は、表面上、内実としての「やさしい」「ものわかりのいい」父性として描かれている。その上、責任を果たせ、仕事もこなせる。これは、外見(かつての父性は、中身を外見で繕ていた?)ではなく、中身が問題、というメッセージだろう。
 さて、クライマックスになる市庁での記者会見。そこでの質問にクビがかかっている彼は娘の迷子とネコのことで時間に間に合わない。そこを彼女がフォロー。そのときの彼女のいでたちは、常日頃、ここぞというときのいでたち(ビジネス・スーツ)とは正反対な「センスの悪い」レインコート。そう、ここでも雨。このお話では、一貫して彼女の鎧であり戦闘服であるビジネス・スーツは汚され続けるのだ。
時間かせぎの質問では、彼の書いていることは信じられる、という表明。まあ、これが、愛情告白なんですね。面とむかってはいえない彼女が、市庁や大勢の新聞記者をまえにして。このあたりには、常日頃「強がっている」がゆえの「かわいさ」が、表現されているのだろう。
 ところで、二人の子供達の役割はなんだろうか。それは、二人を見る他者としての子供だ。だから、バツイチの関係が必要、もしくは、ぴったりはまったのだ、とも言える。最近見るアメリカ映画の家族で離婚していな夫婦にであったためしがない。
実は、映画にでてくる「自由にならないもの」が二つある。それは、仕事と子供。常に投げられる「どっちが大事なの」という問いかけ。しかし、結局、仕事は、選択可能なものとなる。この「選択=放棄」が、クライアントの信用を得るという場面もおまけにあったが。
子供が、二人にとっての鏡(lookingグラス)になっているのは、子供が、当人たちにとって、自由にならない存在だということがあるからだ。他の関係、職場、前のつれあい、など、他の諸関係がみんな選択可能になっているので、これらは、「鏡」になりえない。Looking glass self.
自我を写し出す「他者」になりうるものは、実は、自分の自由にはならないものなのでだ。選択不可、という相手でなければならない。選択不可、という状態になって、初めて自我は定位する。
しかし、選択不可ということは、相手との関係が従属的になるということだ。これは、自由からもっともはなれた状態ではないか。個の問題は、相手を必要としている仕方にあらわれる。従属的、支配的に相手を必要とする関係と、パートナーシップとして相手を必要する関係は、やはり違うものだろう。キャリアウーマンで強がりの彼女を素直にさせていく主導権は、彼のほうがもっていたが、従属的な関係にはもっていかなかった。何年か前に、『男が女を愛する時』の結末の「私にはあなたが必要なの」というどっちらけの「ハッピーエンド」ような気分にはさせられなかった(この映画の感想も書きました)。
しかし、(成人の)男と女だけの関係で描くとしたら、「愛しているよ」というまったく無内容なフレーズにすべてをゆだねる結末は避けられないのかもしれない。こう考えてみると、離婚は「都合のいい」他者の供給元、ということかもしれない。そこでは、「愛しているよ」のかわりに、理念化された、子供の無心さ、素直さが、居座るだけだからだ。
社会的には、売れっ子コラムニストだったり、バリバリのキャリア・ウーマンだったりしても、実際には決してスーパー(ウー)マンではない彼と彼女が、お互いに素直になる過程を見せられて、観客は、ほっとする。観客は、彼と彼女の子供たちの視点を与えられてスクリーンに参加する。仕事と時間に追いまくられる現代人のセラピー映画。バツイチ子づれ男女の恋愛物語。けっこう楽しめました。
これで、感想は、おしまい。

1997/08/01 (Fri) 08:13:32 JST <ふ>

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