『Shall we ダンス?』と『空手道ビジネスマンクラス』社内報Dash原稿 1997/12/25

 昨年の十月頃であったが、「Shall we ダンス?」(1996、監督・周防正行)が、アメリカでも話題になっているという記事があった。黒澤映画とは違った日本人像、それも平均的なサラリーマンへのイメージが変わったとか。しかし、日本人がみんな侍のイメージだったとしたら少々無気味である。我々だって、アメリカ=西部劇なんて見てないよね。
それはさておき、最近、失意に遭遇した時に受ける打撃が小さくなってきているように思う。もっとも、失意を恐れて冒険しなくなっているが。
若い時には、絶望や失意の重みを知らない希望。歳を重ねるにつれ、希望や夢なんてものは経験してきた絶望やら失意やらの下敷きになってとうにペシャンコになっていく。もっと若かったころは、本当の自分は他にいて、今は世を忍ぶ仮の姿なのだと思っていたと思う。今でも、オレだって..と思わないわけではないが、可能性よりも不可能性の方がどうもリアルである。毎日毎日、自分の「身の程」をボディブローのように思い知らされているので、無邪気な希望などを持ちたくても持てない状態が定着してしまっている。
もちろん「無邪気な希望」が羨ましいわけではない。かつてとは比べものにならない精神的な安定だって手にしている。が、そこそこの生活は、かつては自分が抱いていた「夢」や「希望」と引き換えに手に入れてきたのだ。そうした安定はもちろん大切なのだが、問題は、それに満足しきれない自分がまだ生きていて、時々目を覚ますことだ。ま、それもそのうち、深い眠りについてしまうのかもしれないが….。
 『Shall we ダンス?』の主人公・杉山は42歳。「不惑」なるタームを思い出したのは、40歳を走り抜けてしまったあとだったと思う。
そこそこの生活を営む「気の弱いサラリーマン」杉山(役所広司)の毎日も、ずっとそのまま続くかのようであった。ところが、帰りの駅からふと見上げたビルに「ダンス教室」があって、美人の先生(舞・草刈民代)が窓の外を見ていたりすると、状況は急激に変化していくのである。「なんで、社交ダンスに?」などと聞かれて、美人の先生が目当てです、なんてことは口には出さない。しかし、これは運命的な出会いなのだ、という直感が働いたのなら(下心はともかく)通い始めるしかないのである。もちろん、会社や家族には秘密である。
こうして始まる『Shall we ダンス?』は、そこそこの生活の裂け目にだって、新しい世界が生まれることを描いてくれる、我らオジサン達への応援歌なのである。
このお話では、そこそこの生活を送っている中年のおじさんが、自分の身体という久しく省みることもなかったものと向き合うことを通じて、自信(自身)を回復する。ここが嬉しい。
で、40歳くらいのおじさんになにが辛いかというと、身体を動かすことに他ならない。久しく動かしていないのだから身体は急には言うことを聞いてくれない。しかし、この身体との格闘の過程が、自分はどう背伸びしてもこの大きさの身体しかもっていない、ということを教えてくれ、同時に、やればできるじゃん、という自信を呼び起こしてくれるのだ。学校を卒業し、結婚し、子供をもうけ、マイホームを手にし、という過程で実現してきた「そこそこの生活」は、自信と同時にあきらめの蓄積でもあった。この諦めを振り払える手応えが、身体との再会から生まれる。
 夢枕漠の『空手道ビジネスマンクラス・練馬支部』(講談社,1991)も同じ様に「おじさんのリターンマッチ」を扱ったものである。この主人公・木原も42歳である。この作品は、1995年にNHKによってドラマ化されている(脚本・松原敏春)。原作との違いを許せない漠さんファンもいるようだが、これくらいしか夢枕漠を読んでない私からみても、NHKのドラマはあんまりだと思っていた。ところが『Shall we ダンス?』を見て、両者に通じるものを見つけてしまってからは少々大目にみれるようになった。
原作では主人公・木原は、作家志望でありながら、生活のためにある出版社で編集の仕事をしている。最後は小説家をめざす。ドラマでは、水産会社の係長(奥田瑛二)。最後には自信をつけた主人公が課長昇進試験を受ける。どちらも自分でやりたいことを胸の内に秘めながらもんもんとした毎日を送っていたところ、ある事件に遭遇し、そこから空手の道場に通うようになる。小説の方はペーパーバック版も出たし簡単に手に入る。NHKドラマ版はビデオに撮ってあるので、希望の方は連絡されたい。
 「ダンス」も「空手道」も日常的な閉塞感を背景にしている点は同じだが、空手道のほうでは、直接的な暴力による自尊心の破壊が引き金になる。実は、自尊心にとって、制度も破壊的で暴力的なものである。両者とも身体をテーマ化しているが、ストレスが直接的に発散されるわけではない。そんな練習をすれば怪我をするし、第一惨めになるだけだ。自尊心の回復は憂さ晴らしとしての練習ではなく、あくまで、自身の身体の発見を媒介に実現される。この過程で、外からは見えないが、おじさんは「聖おじさん」へと変身しているのである。
「空手道」では、変身の導き手となってくれるのは「美人なダンスの先生」ではなく、道場の指導員である今江青年である。共通するのは、どちらの話でも導き手は、それはそれで大変な苦悩をかかえていて、しかし、それが主人公(達)との関係のなかで解決されていくことである。ここが、恋愛関係のような二者関係だけでは描けないところだ。恋愛映画の二者関係のハッピーエンドものがつまらないのは、その二人の関係の明日の暗闇を描いていない、などというケチな理由からではなく、その出会いによって充実する生(=性)のダイナミズムが隠蔽されるからに他ならない。それに、二者関係で築かれた(彼や彼女に救われた)自我は、相手がいなくなったらもろいものだが、社会的な普遍性のなかで形成された自我は一人でもやっていける強さを持つ。『もののけ姫』のあしたかとサンの<別れ>が希望になるのはそういう理由からだ。別れが必然化された出会いだってある。(以上は、私の勝手な思い入れである。その証拠に、周防監督は、草刈さんと結婚してしまうのだから。まったく。)
 小説の映画化となると脚本家が腕を振るう。友人にフジテレビのシナリオ大賞で優勝した学生時代からの友人がいるが、原作はあくまで素材だという。映画を小説化するノーベライズだと、映画の話が忠実に文字になっているが、逆の場合は、別の作品を創りあげるようなものかもしれない。NHKドラマの方は、もうひとつの「空手道ビジネスマンクラス」といっていいと思う。漠さんファンのMからは、裏切り者と呼ばれるかもしれないが、ま、いいか。奴はまだ若いし。
 なお、「ダンス」の杉山の奥さん役は原日出子。「空手道」の木原の奥さんは、原田美枝子である。どちらも悪くない。小説「空手道」には、もう一人大事な役を演じる女性が登場するので、ドラマでは誰がやるのか楽しみだったが、それはなかった。残念。どんな役かは、読んでのおたのしみ。私の42歳もあとわずかとなってしまった。

1997/12/25 (Thu) 22:42:38 JST <ふ>

カテゴリー: 映画 パーマリンク