太陽の少年「陽光燦爛的日子」社内報Dash原稿 1998-03-08

1998-03-08
太陽の少年「陽光燦爛的日子」
1994年 中国・香港合作
監督・脚本 チアン・ウェン(姜文)
原作 ワン・シュオ(王朔)
『動物凶猛』
 とても不思議な映画である。登場するのは主人公(シャオチュン)を中心とした少年たちと「謎の美少女」ミーリン。「大人」はところどころで断片的に登場するだけである。明け方に突然目が覚めてしまい昔のことを思い出してしまったり、家人や近所の人達がまだ起きていない時間に味わう感覚を映像にするとこんな風になるかもしれない。

 実は、この映画は監督(チアン・ウェン)の少年時代の思い出である。70年代半ばの北京。大人たちは政治闘争にあけくれ、青年は農村に下放され、北京は少年たち(ワルども)の天下であった、というのだ。彼らは、だれにもじゃまされずに、授業をさぼり、煙草をふかし、ナンパに励んでいた(チラシより)。
中国と映画というと、どうしても<政治>がつきまとう。このあいだも、ブラッド・ピット主演の「セブン・イヤーズ・イン・チベット」を始めとしたハリウッド映画に中国政府がかみついていた。
 70年代半ばの中国といえば、まだ、文化大革命、紅衛兵の時代である。この映画にこれらも登場はする。党の地区委員も登場する。しかし、少年時代の追憶の中では、それらが中心を占めることはない。中心にあるのは、少年の友人達であり「謎の美少女」なのである。
この映画を見て茨木のり子さんの詩、「伝説」を思い出した。
青春が美しい というのは 伝説である
からだは日々にみずみずしく増殖するのに
こころはひどい囚われ人 木偶の坊
青春はみにくく歪み へまだらけ
ちぎっては投げ ちぎっては投げ
どれが自分かわからない
残酷で 恥じ多い季節
そこを通ってきた私にはよく見える
 冒頭にふれた「世界の独り占め」とでもいうような未明の感覚がある。世界中で動いているのは自分だけのような感覚だ。その中で、さらに様々な未明の世界が入れ子になる。「謎の美少女」ミーリンとのことなどは、何重にも入れ子になった記憶(というより身体の痛みか…)に他ならないだろう。
 この未明の感覚の中でシーンとしての未明も描かれる。
ある夜、映画会が開催される。党の地区委員会の主催で、普通の人達は屋外で「1917年のレーニン」を見ている。すでにお馴染みの映画のようで少年達はお話をすべて覚えてしまっている。大人たちも、レーニンが暗殺されようとするときに、画面に向かって「危ないぞ!」などと叫んだりしている。実は、これと平行して、党の地区委員などの幹部は屋内の会場で、ヌード満載の「腐敗したブルジョア映画」を鑑賞していた。少年たちは、「じゃあ、今日の夜、映画会場で会おうな!」と約束をするのだが、それは、こちらの会場のことであった。そして、会場にもぐりこんでいた子供たちは発見され、上映は中断。地区委員殿は、若い女性秘書を侍らせてのご鑑賞。その女性秘書が立ち上がって「このような腐敗した帝国主義文化は、どーの、こーの」と説教演説をのたもうた後、「同志たち、子供を連れて帰りなさい」と命令する場面がある。そのあと、会場から締め出された主人公たちは夜明けまで屋根の上で過ごすことになるのだ。
そこでは、ミーリンがつまびくギターにあわせて「モスクワ郊外の夜はふけて」が歌われるのだが、夜が明けていくあの瞬間の、世界の中で生きているのは我等のみ、という感じがよくでていた。監督、やるねぇ。
青春は自分を探しに出る 長い旅の
靴ひもを結ぶ 暗い未明のおののきだ
 文化大革命、北京、とくれば何色がイメージされるだろうか。共産党の赤旗の赤色と人民服のカーキ色だろう。では、この映画はなに色か。確かに当時の北京のほこりっぽいすすけた色も背景にあるが、実に水色なのである。
何度も登場するプールの色が、文革・北京のイメージと違ったので印象に残っている。終わりの方で主人公がみんなの気をひこうとプールの飛び込み台からダイブする場面があるが、そのプールの青いこと。中国の連中の青春も同じ色をしていたということだ。
 主人公シャオチュンを演じたシア・ユイ(夏雨)は、この映画でヴェネチア国際映画際で主演男優賞を取った(94年)。国内公開がいつだったのか知らないが(97年春?)、昨年末に地元の下高井戸シネマという名画座で見てきた。その後、社内にはLDで持っているファンがいることを知ったが、彼は、この映画は「男の子」の映画だよね、と言っていた。もちろん「女の子」にも似たような世界があったに違いないと思う。でも、きっとああではなかったのだろう。「『女の子』にはわからねぇだろうな」なんて話にもなったが、どうかな。茨木さんなんかは、わかってくれそうな気もしているのだが。もっとも、木下順二が詩論の中で茨木さんのことを、男らしい面ももった詩人、なんて書き方をしていたから彼女の感受性は純「女の子」的ではないのかもしれない。
ようやくこころが自在さを得る頃には
からだは がくり と衰えてくる
人生の秤はいやになるほど
よくバランスがとれている
失ったものに人々は敏感だから
思わず知らず叫んでしまう
<青か春は 美しかりし!>と
 昔の「男の子」はもちろん、昔の「女の子」も必見。
今回はこれで。再見! <ふ>
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