「フル・モンティ」社内報Dash原稿 1998/08/13

 「男のストリップ」映画だ、と聞いてどんな映画を想像するだろうか。
これは、25年前は製鉄業で栄えたイギリスはシェフィールドでの失業した男達のお話。
失業すると、それまで当たり前であったものがことごとく崩れていく。働いて自分の生活を維持しているということがもたらしていたのは、賃金だけはなく、プライドやら体面やらでもあったのだ。失業という事態は、それらを崩してしまう。賃金は、向こうからこなくなってしまうが、当人にとっては、そう簡単に手放せないのが「プライド」などである。会社での地位あっての自分でもあったにもかかわらず、それは認めたくない。ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリングストーン」を思い出した。

むかし あんたはいい服をきていた
わかかったときに 乞食に銭をほってやったね
みんないっていた「気をつけろ落ちるぞ」と
でも みんなでからかっているだけだ とおもっていたろう

よく わらいものにしたね
うろついているやつらを
いま あんたは大声でしゃべらない
いま あんたはじまんもしない
つぎの食事を どうやってごまかすかについて
どんな気がする
どんな気がする
うちがないことは
ぜんぜん知られぬことは
ころがる石のようなことは
(“Like a rolling stone” Bob Dylan, 1965, 訳 片桐ユズル)
 で、お話は、失業中の主人公ガズ(Gaz)が、巡業に来ていた男ストリップに街の女性達が熱狂しているのを見て、自分達もそれで一稼ぎしようと思い立ったところから始まる。彼は、養育費も払えなくなっていて、一人息子の親権も離婚した妻にとりあげられてしまいそうになっている。息子の親で居続けるためには、養育費700ポンドを払わないとならないのだ。お金がなければなにも始まらない。誰も認めてくれない。惨めである。
 そんな風に始まるお話の随所で描かれるのが、男達のいろいろな「こだわり」。失業状態だからといって「失うものは鉄鎖のみ」というわけではない。妻への面子。近所での体面。等など。会社勤めをするうちに身に付けてしまったものが山ほどある。ストリップやって一稼ぎしようという話しには乗ったものの、人間そう簡単に「裸」になれるものではないのだ。
 男達の中には、病の老母を抱えているのに失業してしまい自殺しようとした若者もいる。会社の「嫌われ管理職」も加わった。その管理職の家の風呂の修理に来ていた職人も加わった。昔はタップダンスを踊っていたというが、もう50を過ぎているおじいちゃんの黒人。そんな男達が、まず練習で裸になって身体を見せ合うところでの「躊躇」が最初の見せ場である。
身にまとっていた「鎧」を脱ぎ捨てるというのは、そう簡単なことではないのだな。
今度は、お客である女性の視線で仲間を、身体的には素人の自分達の身体を評価することになる。男は、女性を容姿やらおっぱいの大きさやらで言いたい放題をしているのだが、今度は、自分たちが身体だけで勝負しなくてはならなくなった。そこでは、人格なんぞは評価の対象にならない。いかに、セクシーか。これだけが問題なのだ。
なのに、自分は、デブだったりヤセだったり、股のあいだの一物もたいして大きくなかったり、とても鑑賞には耐えられるものではない….。
 それに「踊り」だって大変だ。「嫌われ管理職」がダンスのたしなみがあるので彼がコーチすることになるが『フラッシュ・ダンス』(’83米)のビデオを教材にしていた。懐かしかったね。主人公(J.ビールズ)が溶接している場面を見ていて、ありゃ日曜大工か、なんて台詞もとびだしていた。思い返せば彼女の役柄は、元祖「GATTEN」な女ではないか。
 それはさておき。男達は、公演にむけて練習を重ねていくうちに、だんだん「裸」になっていく。長い会社勤めの中で身体の一部になってしまった鎧を脱いでいくのである。これは、脱会社のリハビリ映画ではないかと思えてくる。
そして公演当日。予想外の大入り満員。開演を待つ場内はすごい熱気だ。ここで、みんなをひっぱてきた主人公・ガズがおじけずく。「女性のみ」としたはずなのに、男性客も席についている。彼にとっては、仲間の前で裸になり、女性客の前で裸になり、というのは問題なくても、同性の客の前で裸になるのは抵抗が大きすぎた。
おじけづいた彼を残して仲間達がステージに立ち、ショーが始まる。そんな彼を、この日を発案することから練習、警察ざた、などなどを見守ってきた小学生の一人息子が叱り付ける。「情けない奴は嫌いだ。早くいけ!」。この映画、父-息子関係が全体の軸なのだ。これに、男達が「失業」というシビアな条件下で自分を取り戻していく過程がからむ。
それにしても、男性ストリップを見る女性だけの観客席の様子って、あんな熱気なのだろうか。若い娘からおばちゃんまでが、ものすごいエネルギーで盛り上がっている。洪笑のるつぼなのだ。ストリップを見たのはテレビの深夜番組くらいでしかないのだが(残念ながら)、男の客が舞台の女の子を見る時の雰囲気とは随分違うなと思った。失業の町もあの女性パワーがある限り復活するということか。性的なエネルギーは生命力といわれるが、それが集団的な表現力を持った状態なのだろう。
「失業」を舞台にしたものでは「ブラス!」(”BRASSED OFF,1996,イギリス)も見たが、労働は賃金のためだけに行われているのではないなぁ、と思わされる。それだけに日々の仕事で信頼できる同僚が存在するというのは貴重なことなのだ。

[98-08-13]下高井戸シネマ
[98-09-26]Dylanの歌詞を挿入

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